愛すべき“息子”たち

先日、妻に言われました。その一言がやけに腑に落ちた感がありました。

「周りの人からたくさん聞かれた。『だんなさんは何でMAGOくんをそんな以前から応援してたの?』って。でも分かった気がした。きっとMAGOくんにしても享くんにしても、あなたにとって息子みたいなものだと思う」。

息子( ゚Д゚)!

自分には妻との間には子供がいません(もちろん外にもいません笑)。子供ができる前にいろんなことをし過ぎました。「もし本当の子供がいたら、そこまでしてたと思う?」。多分してなかったかもしれない……。

でも、この言葉を聞いたとき、「あーそうか」、という感覚になったのは間違いなかったです。「だって、無償の愛で接してるでしょ?」。

無償の愛。

まさにそこかもしれないですね。別段見返りを求めているわけでもなく、ただひたすら、二人が世界を駆けあがっていくのを、福井から、微力ながら、見ていたと思います。

昔、妻にも言われました。「何でそんなに彼らに入れ込んでるの?」って。なんでだろう、という理由を探す前に、先に行動していたと思います。そういうのを無償の愛、っていうんやなぁ、と。

皆さんにはお子さんいますか? お子さんには無償の愛を注いでいますよね。そんな愛を自分はきっと、福井から出て世界に飛び出そうと前進する人たちに注いだのだと思います。そういう人たちに出会える場所に、自分はたまたまいました。その二人とは、俳優・片山享、そして美術家・MAGO。

左が片山享、右がMAGO

片山享

以前、『月刊ウララ』でこれから伸びていく人たちを紹介する「Rising Sun」という企画がありました。聞く力、ライティング力がここで養われたといっても過言ではありません。いろんな方を取材しました。

その中で2008年、出会いました。映画『ラストゲーム~最後の早慶戦~』に重要な役として出演する、ということで福井に戻ってきた、俳優・片山享。この時に書いた文章の中で覚えているのが、「wanna be ではなく、will be」。なりたい、ではなく、なる、という覚悟。確か、次が福井新聞での取材でしたから、初対面にもかかわらず、とても話が止まらないし、「乗っけてってやるわー」って、無理やり新聞社まで乗せてった記憶があります(笑)

若い!

そこからですね。いろいろと話をするようになったのは。2010年の津田寛治さん監督作品『カタラズのまちで』にも出演しましたし。もう実家は福井にないし、当時から泊まるお金もないから「俺ん家泊まればいいよ」なんて、しまいには鍵まで渡して撮影時は宿と化していました。津田さんも自分の家に泊まってたこともあったなぁ。

で、2016年の「ふくいムービーハッカソン」が彼のターニングポイントになっていきます。これはこのブログでも何度も出てますが、3日間で映画を撮影するプロジェクトで、2015年から始まった「福井駅前短編映画祭」のスピンオフ企画でスタートしたものです。

ムービーハッカソンの提唱者は津田寛治さんで、津田さんから誘われて役者として参加したのが始まりでした。このとき、「来年監督やらしてください!」と直談判に来たので、「いいよ!」と二つ返事で返しました。やってみたい、と何かを思わせたのでしょうね。

で、脚本を書くときに電話してくるんですよ。「宮田さん、幸せですか?」って。「そんなん幸せに決まってるやろが」と答えると「それは嘘だ」って突っかかってくるわけです(笑)。「福井に幸せなんてない。そんな何かをあきらめてるに決まってる」ってな感じでさらに突っかかってくるわけです。何がいいたいねん、ってイライラし始め、さらに来るもんやから「幸せなんて場所で決めることか!? 幸せの尺度なんて自分次第やろがし! 勝手に決めつけんな!」と、さすがに怒鳴るわけですよ(笑)。そしたら「ありがとうございました。これで脚本掛けます」ってプツッって…。なんやったんや…?

というエピソードの結果、できたのが初監督作品『いっちょらい』でした。幸せとは場所にも立場にもとらわれず、自分の心が決めるもの。どんな場所にいたって、幸せを感じていれば、それは幸せなこと。

これ、最終日の午前1時。翌日は月曜日なのに、最後まで全員付き合ってくれました

いやー、アツかった。2回目のこの作品で、「ふくいムービーハッカソン」の醍醐味というか、面白さが波及したと思います。自分の趣旨を分かってくれた上で毎回監督をしてもらい、ある意味彼とともに「ふくいムービーハッカソン」を形作っていったようなものでした。

で、実は2018年に彼は言ってきました。「福井で映画を撮りたいんです。長編映画を」という。おお、いいではないか、と協力するわけですね。となるとどうなるか。我が家は合宿所と化します(笑) 10人近いスタッフが1週間近く滞在するんです。もちろん当時はエアコンなし。7月初旬だから相当暑かったと思います。もう今年は大丈夫、涼しいです(笑)

で、できたのが『轟音』でした。

やっぱりプロデューサーに名前を載せさせてもらってます(汗)

これがまた、いろんな意味で話題になりました。試写会で参加した人たちが見終わった後「どう捉えればいいんだろう…」というもやーーっとした空気が流れたのを覚えています(笑) 全体的に暗い映画ですが、彼は「希望の映画」と言う。主人公はどうなっていくんだろう、という“考えさせる映画”なんですよ。国内で上映されるハリウッド系の映画って、わかりやすいじゃないですか。特にヒーローものなんかにしてみたら、予告編でストーリーがわかるという単純さ。それがよかったりもするんですが、その真逆を行くというか。昔見たフランスの映画のような、そんな感覚でした。あと、福井が生んだ映画監督・吉田喜重さんの映画を観たような感覚でした。あの後の主人公はどうなったんだろう、と、観終わった後も会話が途切れないような、そんな映画でした。

2019年には鯖江市と仮面女子がコラボした映画『つむぐ』、『未来の唄』の脚本・監督も務め、鯖江出身の彼はとうとう故郷に錦を飾ることができました。と、同時に、『轟音』は国内の映画祭でも評価されただけでなく、アメリカ・JAPANCUTS(北米最大の日本映画祭)Next Generation部門選出、ドイツ・ドイツ・ハンブルグ日本映画祭 招待作品、スペイン・シッチェス映画祭 ブリガドーン部門選出と、3か国で上映されました。

MAGO

もう1人。2008年から2年後の2010年、一人の男の子が会社にやってきました。人からの紹介で「会ってくれませんか」ということで会ったのがMAGOでした。越前和紙に墨でフクイラプトルをモチーフにした絵画を描いて、その絵が恐竜博物館に展示されていたのです。これより前に彼は会社に取材をしてほしいと連絡をしたそうです。しかしそのとき電話を受けた人は「がんばってください」と言って切ったそうです。いや、すいませんでした(*´ω`*)

取材を目的として話を聞きましたが、25歳なのになんつー人生歩んでいるんや、と、ぶったまげたのを覚えています。その時に覚えているのが、医者から「よく自殺しなかったね」と言われたこと。それくらい壮絶でした。それでも絵で生きていく、他の仕事はしない、絵で世界に打って出るという覚悟。正直しびれました。思わず「これまで会った中で一番のRising Sunや」と口にしていました。

若い!

もちろん撮影は恐竜博物館。一緒な車で行きます。そこでも話しました。それからも連絡を取り合っていました。結構美人画が好きで、さらっと描き上げてしまうのにある意味才能を感じてもいました。マネージャーがついて有名になっていくのか? と思ったら契約を解除してアメリカに行っちゃって。ちょうどその頃「ウララでコラム書かせてください!」と言ってきたものだから、「よっしゃ!」と、社内で調整して書き始めます。それが2012年12月のこと。

アメリカでの奮闘記もコラムを通じて見てきました。帰ってきてエキマエで個展「TRiPLE-TOPs展」を開くときも、当時妻とオープンしていたボクサーパンツ専門店『ラーナニーニャ』の2階を会場にもしました。トークセッションもやりました。確か2回やった気がします。

でも、1枚も売れませんでした。まだまだ誰も知らない画家。ウララでコラムを書いていても、まだまだ誰も知らない画家。「よっしゃ、よかったらこれでヨーロッパ行きのチケットの足しにでもしなよ」と、恐竜の絵を15万円で買いました。これが唯一売れた絵だったんです。

買った絵はパンツの柄にしました。このあと絵を買いたいという人が現われて、何と…!

実際、この15万円があったから本当にヨーロッパに行けたようです。それが彼のターニングポイントになっていきます。ずっと“会いに行きたかった絵”、クリムトの「接吻」の前に立ち、絵の描き方を変えていきます。これまでさらっと描いていたのを止めて、じっくり、一枚の前にじっくり向き合って書き始めます。スーパーリアリズムと呼ばれる絵を描き上げたのですが、いくらリアリズムを追求しても、リアルには追いつけない。これでスーパーリアリズムを止めよう、と思って描いた絵が、なんと、ブレイクしていくのです。

無精卵をかぶる女。『ラーナニーニャ』に飾っていましたが、『MAGO GALLERY FUKUI』に移動しました。もう描くことのないスーパーリアリズムはいわばラスト1枚的存在!早い者勝ち!

それからはいろんな人の出会いがあり、新宿『Flags』のキャラクターになり、そしてガーナに単身向かって「サスティナブルキャピタリズム」を提唱し、今のMAGOになっていきます。この段落、さらっと書いていますが、4年くらいの出来事で、えらいスピードで駆けあがっていきます。

新宿『Flags』のオーロラビジョンでいつも流れてます
いきなり行くって聞いたときはビックリ。どうやって行けばいい? から始まったから

特に今の活動は目覚ましく、クラウドファンドで映画部門1位を獲得する3100万円を集めたり、それでできた映画がアメリカ・Impact DOCS Awardでドキュメンタリー部門、アジア部門、自然環境部門、ソーシャルチェンジ部門の4部門をいきなり受賞。さらにスタートアップ企業の登竜門的イベント「ICCサミット」で優勝をさらうなど、あと少しで世界が認知するところまで来ています。

で、彼の「サスティナブルキャピタリズム」を広めようと、『MAGO GALLERY FUKUI』が9月6日に新栄商店街にオープンしました。1年前から構想があり、今年の7月に動き出して2ヶ月で形になりました。ええ、自分オーナーです(^_^;) そういえば、『ラーナニーニャ』をオープンする時もMAGOの絵をパンツにして福井に繊維産業あり、ということを広く伝えたいと思っていました。そしてまた、MAGOの思想を福井の人たちに伝え、さらに国内外から福井に来てもらおうと思って『MAGO GALLERY FUKUI』を開きました。彼は言いました。「故郷に錦を飾ることができました。これで堂々と福井に帰ってくることができます」。

オープン日は全メディアが押し寄せてフィーバーでした。ありがとうございました!

よく考えたら…

したこともない映画のプロデューサーになったり、映画にお金も時間もつぎ込んだり、ウララをしながらパンツ屋やったりギャラリー作ったり。そんな行動してたら、誰だって言いたくなりますよね「何でそんなに彼らに入れ込んでるの?」って。

でも、思うんです。福井を離れているけれども、福井を盛り上げたいと思う彼らと、彼らの得意な分野で一緒に行動をする。福井のまちづくりをライフワークとしている自分として、これほど心強いものはありません。彼らは東京で、世界で、福井を発信してくれるのですから。きっと二人は言ってくれるでしょう。「宮田さんがいなかったらしなかったしできなかった」と。必ず地元には地元を愛して地元を盛り上げたいという人たちがいます。と同時に、地元を離れているけれども地元のことを思い、地元に何か貢献したいと思う人たちがいます。きっと、両者がつながることが、地元を盛り上げていく起爆剤になるだろうって。地元にいる人が地元にいない人の貢献を手伝うことが、彼らにとって「錦を飾る」ことになると思います。愛すべき年の近い“息子たち”の成長を見守ること、これがひいては福井の発展につながっていく、そう信じて日々生きています。

自分はきっと、福井を離れることはありません。だってここにいることが幸せだから。福井のまちづくりに携わっていることに幸せを感じているから。ウララを作っているのも、映画作るのも、パンツ屋とかギャラリーを新栄商店街でやるのも。福井を離れなければ夢を叶えられない人は、福井を離れればいいと思います。離れた人全員が福井を嫌いになって出て行ったわけではありません。「いつかは福井に恩返しを」と思っている人も多いはずです。そのとき恩返しを手伝えたら、と思っています。その代わり、覚悟を持って人生を臨んでいてください。中途半端は見透かされますから。自分に。

この愛すべき息子たち、是非覚えておいてください。

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