3密関係なしの福井旅
いやー、県内を一泊二日で旅するって、なかなかない体験ですねぇ。しかもこの雪の中! まあ、福井の冬で雪がない方がおかしいんであって、この季節でさえも楽しめる場所を、と考えて南下してみました。それに、政府が話す勝負の3週間って、結局人の多いところに集まるのを前提にした話であって、この雪の中と福井、どう考えても人はいない(笑) この天気だからこそゆっくりと、じっくりと、旅ができるというものです。雪さん、ありがとう!
あと、自分は冬の天気が好きなんです。どんよりとした厚い雲が落ち着くんです。時折見せる晴れ間が、雪を照らしてめちゃくちゃキレイで。ずっと晴れてるよりも、ちょっとした晴れ間のほうが価値を感じると思いませんか? 逆にこの雲が嫌で福井を離れた、って人もいます。まあそれは個人の好き嫌いですからね。
美浜町と若狭町って?
さてやってきた美浜町。みなさんどんなイメージ持ってますか? 福井の人ならへしことか、へしことか、へしことか。へしこの町宣言してるし、ご当地キャラはへしこちゃんだし、へしこへしこしてると思うんです。でもへしこって、海沿いの町は大体作ってるんですよねぇ。越前海岸沿いも、三国も。父親が三国出身なので、三国のへしこをよく食べてたんですけど、三国のはちょっと塩くどい感じです。いうても全部塩くどいですけど(笑)。それでもへしこは高血圧に効果があるって、大学の先生が以前発表していました。うそーん、って思うけど、ホントの話。
県外の人なら原発とか水晶浜とか言うんだろうな。あと三方五湖。三方五湖って美浜町と若狭町にまたがっているので、美浜町単体では想像しにくい感覚あります。もちろん久々子(くぐし)湖とか日向(ひるが)湖とかは美浜町に属してます。あ、ちなみに三方五湖ってあと3つ、何て言うか知ってます?
水月(すいげつ)湖と菅(すが)湖と三方(みかた)湖です。こちらは若狭町に属してます。初めて知る人もそうですが、三方五湖の位置関係を知ってる人も地元の人以外はそうそういないかも。5つきちんと言える人も、福井県内で聞いても完璧に答えられる人はそうそういないと思います。だから、せっかく福井県に住んでるんだから、知ってほしいし、県外の人たちにも知ってほしいな、と思ってます。つまり、美浜町を旅するということは三方五湖はマストなので、結果若狭町も旅することにつながります。だから厳密にいうと今回は美浜町若狭町の旅、です。
今回は三方五湖の名前も位置も完全把握している『日本旅行ワールド』さんのご協力により実現しました。『日本旅行ワールド』さんありがとうございました!
お城のイメージが覆った!
せっかくの福井県民が福井を旅するなら、ちょっと違う視点で行ってみようかと。で、いきなり行くのが国吉城資料館って、ベタやん自分…。ここをベタって言ってる時点でコアなのかも知れないけど、まあまあ今年は知られたんではないですかね。『麒麟がくる』で。金ヶ崎城跡は元々花換えまつりとかで恋の宮的に知られてましたが、国吉城って今回大河ドラマに出るまではそこまで知られてなかったと思います。だからちょっと沸いたみたいですよ。コロナでまた落ちついてしもたけど。
でもって、国吉城って、どこにあったかというと、資料館のある場所の後ろにある山の上! そう、山城なんです。昔、2回くらい登ったことあるんですが、かなり急でした。ホントにここにお城あったの? ってくらい。どこか緩やかな道でもあったんちゃうの? って思うんだけど、ない。今の登山道は地元の人が山に入って仕事するための道を整備して作った道なんですが、昔の道の名残が見つからなかったみたいなんですって。そりゃそうだ。江戸に入ってからは麓の資料館がある場所を奉行所にして、お城はなくなってしまったのだから。
ここ。いつも、どこにいっても気になってたとこ。みなさん、お城って、どんなイメージですか? 普通に考えれば丸岡城とか大野城とか。県外ならば名古屋城とか大阪城とか姫路城とか。でも、そうじゃないんですわ、どうも。資料館の人に聞いたんです、「あの急な坂を登って瓦とか持ってったんですか? 上で作ってたとか?」。答えは、瓦を使ってません、でした。上でも焼いてません、でした。発掘の中でも瓦は出てこなかったそうです。つまり、現代の私たちがイメージしているお城とは違うお城、っちゅうことです。
今の私たちがイメージするお城は織豊期、つまり安土桃山時代に確立するものであって、それまでは屋敷みたいなものであってもお城、と言うていたようです。国吉城は戦国時代のもの。群雄割拠なんてもんじゃない、地域の頭みたいな人たちが「隣町とったったるわー!」みたいな感じでやりあってたようなもんなんでしょうかね。さらに遡って鎌倉時代なんかは、「舘」と呼ばれる場所が突然「城」と呼ばれるようになってたわけです。地域によっては櫓でさえも城、と呼んでいたこともあったそうです。
この突然の名前チェンジ、ちゃんとしたルールがありました。たった一つ、
「戦争になったら城になる」
それだけです。当時は戦争時に拠点となる場所を城、としていたようです。だから極端な話、誰かの家でも拠点になれば城、って言っちゃってたんですわ、昔の人は。確かにそりゃそうだよな、って。戦国時代なんて切った張ったの世界でしょ。取って取られて、焼いて焼かれてが毎日のようにどこかであったわけでしょ。お金かけて瓦葺きなんかしやしないわなー。いつでも壊されるように、壊してもまた使えるようにって、してたと思う。それが釘を使わない建築のアイデアにもなったんかな、ってもふと思いました。
織豊期から江戸へ。その時代の人たちの中で刷り込まれたお城とは、戦争で集まる場所から、戦争がなくなって「お殿様が住む場所」に変わって、今に至ってるわけですね。それが今の日本人のお城観なのです。いやーお城のイメージを完全に覆すお話でした。と同時に、ずっと引っ掛かっていたことが解けた感じもしました。城跡と今も呼ばれる場所は、確かに戦争の拠点っぽいとこ。拠点を城と呼び始め、使われなくなるまで約500年。全国には数万もの城跡があるそうです。この福井にも200では収まらないほどの城跡があるそうです。みなさんの近くにもあるかもしれないですよ。近所を歩けば城跡、なんてことも!?
『麒麟がくる』ファンもいいんですが、『へうげもの』ファンもこの場所沸きますよ。資料読んでいけば登場人物がいろいろ出てきます。「あの人かー」、「この人も関わってたんかー」って、キャラクターの顔が浮かんできます。今ちょうどブームなので明智光秀の「本能寺の変」決行の理由がいろいろ書いてあります。こんなに説があったんか、って驚きました。それに上杉謙信との関連性も。それも驚きました。テレパシーの話です(謎) 原本が読めるってのもかなりレアな話です。何度か来ましたけど、いろんな情報を身につけての来館なので、今回が一番じっくり見れました。
三方五湖・日本の起源説
美浜町と若狭町で多く受け継がれている伝統行事があります。「王の舞」というものなんです。天狗のようなお面付けて舞うんです。この行事、全国に10何ヵ所残っているんですが、実はそのほとんどが三方五湖周辺に集中してるんですよ。不思議でしょ? それも王ですよ。鼻の高い神様といえば猿田彦命(さるたひこのみこと)。手塚治虫作品に数多く登場する猿田博士は猿田彦命へのオマージュでもあります。彼は『日本書紀』で日本を作ったニニギノミコトをお迎えする役目を務めたんですが、この舞がお迎えの舞だとしたら…!
つまり神様が降り立った場所が宮崎県の日向ではなく、福井県の日向のほう! まてまて日本史書き換えるくらいの話やで! この説を唱えている学者さんもいます。王の舞はほぼここにしかないし、あり得ない話ではない、ということだけは言っておきましょう。だって当時の文化は中国大陸や朝鮮半島から渡ってきたのだし、潮の流れで大陸を出るといつも若狭に辿り着くし。歴史はいつだって勝者が書き換えてきた物語。そんなロマンがこの町には残っているんですよ。
〈破 へつづく〉
タケちゃんまん
私のLEDのお得意さん達は、日向湖の周りに居られるので、馴染み深いです。
今日も行かないとなりません。
またじっくり拝読いたします。
頑張って下さい。