毎月ですね、福井県観光連盟の「ふく旅ライター」というところで福井の記事を書いているわけですけれども。このブログサイトで書くように、いつものように書いていたら5000文字を超えてしまいまして…。「そのサイトではそんなの誰も読まん!」と嫁から一蹴されまして…。ので、簡易版を読まれる方はこちらを。それ以上に深く知りたい方はこちらをお読みください。
福井が表舞台に立った日

中学高校で日本の歴史を学んでいると、福井が表舞台に登場するのは大体2回。戦国時代と幕末です。
戦国時代は朝倉氏が織田信長に滅ぼされて(今年の大河ドラマはあっさり退場しちゃったなぁ)、柴田勝家が豊臣秀吉に滅ぼされて(このあと大河ドラマで描かれるだろうなぁ)、徳川家康の息子・結城秀康が福井藩主になる、という戦国三英傑が絡んだ歴史。
そして今回のお話、幕末~明治初期にもかなり表舞台に出てきます。大河ドラマでも描かれた坂本龍馬や西郷隆盛、渋沢栄一、彼らがその人生の中で関わった、福井県民にとって有名な三人について巡っていこうと思います。
三英傑と書いたけれども、もっと活躍した人はたくさんいたので、三英傑とは言えないです。が、よく名前が知られる三人を、福井が表舞台に出た時代の三英傑と引っ掛けて、幕末福井の三英傑、と勝手に名付けています。
理性的に、大局観で考えた名君

一人目は、第十六代福井藩主・松平春嶽公。この方無くして幕末の福井を語ることはできません。御三卿の一つ、田安徳川家に生まれ、数え年11歳で福井藩主になります。調べると結構複雑なので家系図を作ってみたらもっと大変なことに(汗)。でもなるほどなるほどと感じ入りました。まさに今皇室典範の話で盛り上がっていますが、こうした家系図を見てみて、家の存続って本当に大変なんだとわかります。

御三家、御三卿、御連枝、御家門
ちなみに「御三家」、「御三卿」という言葉がありますが、これってどっちがどっち? ってなっている人いませんか? これに「御連枝」だったり「御家門」だったりますます難解になっていきますが、まとめるとこんな感じです。
・御三家――尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家
家康直系の家で、九男・徳川義直から始まる尾張徳川家、十男・徳川頼宣から始まる紀伊徳川家、十一男・徳川頼房から始まる水戸徳川家。将軍輩出の資格を持っている家
・御三卿――田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家
8代将軍・徳川吉宗が自分の血の存続のために作った、シン・御三家みたいなもの。領地を持たない家なので、田安門、一橋門、清水門と、門の名前から付いている。最初は将軍を輩出する資格を持つ家であり、御三家のバックアップ組織だったが、後年になって御三家よりも力が付いていく
・御連枝ー尾張徳川家の分家<高須松平家(岐阜県)、梁川松平家(福島県)、川田久保松平家>
紀伊徳川家の分家<西条松平家(愛媛県)、高森松平家(福井県!)、葛野松平家(福井県!)>、
水戸徳川家の分家<高松松平家(香川県)、守山松平家(福島県)、府中松平家(茨城県)、宍戸松平家(茨城県)>
御三家や秀忠・家光の兄弟の家。いわゆる分家のような存在。将軍輩出の資格はなし
ちなみに高森松平家の高森越前藩は現在のこのあたりに陣屋がありました。陣屋第一公園って名前が残っていますね。
葛野松平家の葛野(かずらの)越前藩は現在のこのあたりに陣屋がありました。 陣屋跡も残っていますね。
・御家門ー越前松平家(福井!)、会津松平家(福島)、越地松平家(島根)、奥平松平家(埼玉)、久松松平家(愛媛など)
将軍輩出の資格はないけれど、家康・秀忠の系統から派生する格の高い家。徳川姓でなく松平姓を名乗っていた
初代福井藩主・結城秀康(徳川家康の次男)を祖とする越前松平家は御家門の最大勢力で、一門からは津山藩(岡山)、松江藩(島根)、前橋藩(群馬)、明石藩(兵庫)、広瀬藩(島根)、糸魚川藩(新潟)、母里藩(島根)の大名を輩出しました。
はい、細かすぎる徳川一族の話でした(笑)。でも知っておいて損はないと思います。福井だから越前松平家の家系図も組み合わせてみたい衝動に駆られ(笑)、付け加えてみたら、どれだけ御三家、御三卿に近い存在だったかというのがわかりました。春嶽公が何故田安家から藩主として来られたのか、決して唐突な話でもなく、それまでの流れを知るとなるほどと思うのです。

「幕末の四賢候」が見出した“人財”

春嶽公は「幕末の四賢候」と呼ばれ、混乱の極みだった幕末において大局観で日本のことを考えていた方。国が困窮していても見て見ぬ振り(いや、見えていなかった)の将軍家、保身に走った大老・老中・家臣団、相手の命を排除することしか解決の方法を持っていなかった志士。その中で理性的に考えられた一人でした。
経済政策だけでなく、人材登用の面にも優れていました。旧態依然の放漫経営に慣れていた家臣をことごとく排し、家格などでなく才能や実力で登用する人事を行ないました。人間社会って、組織が危機的状況に陥ったとき、対局で物事を考えられる人が必ず現れるものです。
そこで登用された人材の中にいたのが、残り二人の“人財”です。
一人は西郷隆盛と深い交流を持ち、安静の大獄で処刑された際、西郷が深い悲しみを覚え、西郷が死ぬまで彼の手紙を所有していたという、福井の秀才・橋本左内。
もう一人は坂本龍馬と懇意にし、新政府の基本方針の原案を作り、明治政府に誘われ、初代東京府知事に就任、初めての全国共通紙幣を作り、今の銀座を作った、努力家・由利公正。
この三人、一人ずつ説明、というよりも絡み合っていたので、一つの流れの中に三人がどう関わっていたのかを説明するほうがわかりやすいかと思います。ちなみに彼らの年齢差を伝えておくと、
松平春嶽1828年生まれ
由利公正1829年生まれ
橋本左内1834年生まれ
結構近しい年齢だったようです。他にも重臣たちはいましたが、岡部左膳(1814年生まれのほう)、中根雪江(1807年生まれ)、鈴木主税(1814年生まれ)、村田氏寿(1821年生まれ)など、10代くらい上の人たちもいて、彼らに新しい世界観を伝えた横井小楠は1809年生まれと20代上の人がいて、松平春嶽公という聡明なトップが出てきたことで彼らも活躍ができたようです。
すわ、お取り潰しか

幕末の福井藩、「藩はつぶれない」という甘え、飢饉、火災、幕府からの普請、さらには15代藩主には初めて将軍の子を藩主に迎えたものだから、さらにお金を使い込むわけです。上が使ってるから下も使っていいやろ、的な結果、数え年11歳で春嶽公が16代藩主に就任したときには90万両という借金王国になっていました。
今の金額換算でいうとだいたい1000億円前後くらいですか。当時の全国の藩は慢性的な赤字経営でしたが、この石高(32万石)でのこの数字は突出していて、お取り潰しも辞さないくらいのレベルでした。
さて、このお金をどう返済したのか。隗より始めよと、自身にかかる経費を1/3に抑え、家臣たちには給料を半分に、着物も贅沢せずに綿のものに、食事も一汁一菜で、大坂の商人には無利息で返済を承認させ、爪に火を灯すような取り組みをしていました。
ちなみに、この政策を実行したのは春嶽公わずか11歳のとき。もちろん春嶽公が実施内容を詳細までは決めていないとは思いますが、1/3にすると決めたのは本人のようです。そうした周囲の反発しかなかった英断が、このあと表舞台へ駆け上がるきっかけになります。
福井に秀才現わる

10年が過ぎ、全国にその政治手腕が轟き始めた頃、もう一人の英傑は大坂にいました。父の仕事である医学の勉強のため、緒方洪庵に師事していた橋本左内です。ちなみにこのとき16歳。その1年前に「啓発録」という人生の生き方5項目を著します。
「啓発録」って、自分が中学生のときに暗唱していた気がします。中学校に胸像もありました。「稚心を去る」、「気を振るう」、「志を立てる」、「勉学する」、「交友を選ぶ」。これを15歳で著したのが秀才の秀才たる所以です。この意識があったからこそ、幕末の志士たちから多大な信頼を得ていたのでしょう。その中には西郷隆盛や横井小楠もいました。
この頃です。ペリーが下田の港にやってくるのです。それはそれはさらなる混乱を生みました。と同時に憂国の士が全国各地で登場してきます。もちろんいろんな考えがあります。開国、攘夷、尊王、佐幕とそれぞれの主張がぶつかり合い、混乱に拍車がかかります。幕末混迷期、そして近代日本揺籃期の始まりです。
医師を続けていた左内もまた国難への憂いを持ち、国のために何かしようと考えていました。その資質は春嶽公の耳にも入ってきます。だから福井のために働いてもらおうと、医師の職から藩校の明道館で教鞭を取り、次の世代を育成する役割を果たします。
安政の大獄と将軍継嗣

その秀才が惚れ込んだのが、熊本にいた横井小楠でした。お互いを認識し、文通を重ね、春嶽公に福井への招聘を進言した一人。当時の熊本藩は旧体制のままで、先進的な小楠の考え方は相容れないものがありました。が、福井藩は真逆の道。熊本藩は一番欲しくない人材、福井藩は一番欲しい人材。
なんとか熊本藩の許可を得て福井に来たのが1858年3月。左内はこの時江戸にいて、春嶽公の命で将軍継嗣で一橋慶喜公擁立のために奔走していました。しかしこの7カ月後、左内は幕府に捕縛されてしまいます。安政の大獄の始まりです。結局二人は再度相まみえることもなく、左内は26歳の生涯を終えます。
将軍継嗣問題は、家系図でもあるように次の将軍を「血」で決めるのか「家と資質」で決めるのか、の争いでした。国難に立ち向かうために外国勢力に対して聡明なトップが対峙することが必要と考えた、春嶽公などの「一橋派」。国全体が財政難に陥っているのに自分の生活と立場、そして前例主義を変えたくない大奥・井伊直弼などの「南紀派」。
私たちは現代になってその歴史を眺めているわけですが、変わらないですね、人間って。変化を好まない人と変化が必要だと動く人との争いの原点ってのは。
薫陶を受け大躍進

しかし、左内が呼んだ小楠の思想は、確実に福井の志士たちを奮起しました。その1人が由利公正です。軍備も必要なところで銃の製造工場の担当になっていた彼は、横井小楠とともに福井における殖産興業を発展させた立役者。そして長崎に商館を設置してオランダとの貿易を任され、福井藩の財政を潤していきます。さらに藩内の産業では生糸が高値で取引されるので養蚕を奨励します。これが福井の繊維王国への足掛かりになります。
春嶽公も5年の謹慎を解かれ、一気に中央の表舞台に登場します。すでに将軍後見職だった一橋慶喜公とともに政事総裁職として幕府内の改革を行ないます。ただ、国が急変しているのに急変したくない人たちの妨害などもあって、結果9か月で政事総裁職を降りてしまいます。
由利公正と坂本龍馬

その後、福井藩として挙兵して上洛する計画もあったんです。結局時期尚早ということで計画は頓挫しましたが、強硬派の一人だった由利公正は蟄居させられます。このとき、彼に会いに来たのが坂本龍馬でした。彼の経済政策の手腕を横井小楠から聞いた坂本龍馬は夜が更けるまでこれからの日本について熱く語り合ったのでした。
それから坂本龍馬は福井藩に海軍創設のためにお金を借りに来ます。よく歴史の話で言われる「5000両を借りた」話です。ただ、実際には春嶽公には会えず、借りたのは1000両だったそうです。最大で5000両までは貸すよ、という言質を取ったまでで、結果的に5000両は貸していない、というのが真相です。ちなみに「高知県立坂本龍馬記念館」に行ったとき、4000両って書いてありました。さぁ、どっち??
明治時代に入り、さまざまな職を歴任した後、春嶽公は引退します。後世になり、福井城の西隣、かつてのお城の中であった場所に春嶽公を祀る福井神社が創建されます。昭和18年に創建されましたが第二次大戦で焼失します。その再建では福井大学工学部の設計により、かなりモダーンな感じになりました。
議事之体大意

そうして大政奉還が起こり、江戸幕府が終わります。明治政府が始まり、由利公正も政府の中枢に入っていくことになります。明治政府の基本方針である「五箇条の御誓文」、原案は由利公正が記した「議事之体大意」でした。その内容とは
「議事之体大意
一、庶民志を遂け、人心をして倦まざらしむるを欲す。
一、士民心を一にし、盛に経綸を行ふを要す。
一、知識を世界に求め、広く皇基を振起すべし。
一、貢士期限を以て賢才に譲るべし。
一、万機公論に決し、私に論ずるなかれ。
諸侯会盟の御趣旨、右等の筋に仰出さるべき哉。大赦の事」
です。現代語訳をいろんなAIに聞いてさらに統合させてみたらこんな感じになりました。
議事(政治・政策決定)のあり方についての大意
一、一般の人々がそれぞれの志を遂げられるようにし、人々の意欲や心が疲弊しないようにしたい。
一、武士も庶民も心を一つにし、積極的に国家の計画や政策(国づくり)を実行することが必要である。
一、世界中から広く知識や情報を求め、国の基礎(国力)を大いに発展させ、強化すべきである。
一、官僚の任期を定め、優れた才能や賢い人物にその地位や役割を譲るべきである。
一、全ての政務や国の重要な事柄は公開の議論によって決定し、個人的な感情や思惑、私利私欲で判断してはならない。
諸侯が集まって盟約を結ぶ際の趣旨も、右記のような原則に基づいて発表されるべきである。また、大赦(大規模な恩赦)を行うべきである。
現代語訳すれば、今考えると当たり前のことだけれど、当たり前のことができなかったのが幕末という時代でした。春嶽公も橋本左内も同じ考えだったと思います。そして現代にも通用する意識だと思います。この意識は私たちの街から生まれ、そして全国へ波及していき、国を変えていきました。
由利公正と渋沢栄一

由利公正は日本初の全国流通紙幣・太政官札を発行します。もちろん紙は越前和紙です! ただ、時代が追いついておらず、失敗には終わるのですが、その失敗を糧に日本に資本主義を根付かせたのが渋沢栄一でした。多分現役時代には直接会っているとは思いませんが、しかし国を富まそうと奔走した系譜は同じなのかもしれません。
今、エキマエの近く、足羽川のほとりに銅像が立っています。この地はまさしく由利公正の生地。お城から見て川の対岸にあり、松岡藩(現在の永平寺町松岡あたり)の吸収に伴い移り住んだ人たちで、当時は下級武士の一人でした。才覚と度胸と機会を持てば身分は関係ないのです。学ぼうとする意欲があれば、人は見ているのです、ということを後世に伝えてくれています。
世界は変わり続けます。変わり続けるから、自分も変わり続けることが大事なんです。これでもかなり歴史を端折って書きましたが、その都度その都度、人の怒り、喜び、悲しみ、妬み、嫉みが行間に現れていました。激動の時代はそうした人間の“欲”が顕在化して、感情のままに行動してしまうことがあるのでしょう。この三人の行動を見て明日からの行動に変化をしていきたいと思います。
・大局観を持つ
・いつでも理性的に事に当たる
・一緒に動いてくれる仲間を持つ
これだな。やっぱ。皆さんも是非この3つを実践してください。
参考資料は「福井県史」、写真の提供は「ふくいドットコム」でした。
