またもややってしまった…(汗)。「ふく旅ライター」のネタで、エキマエの建築物を、と珍しい建築物3選をかるーく書くつもりでしたが、それぞれのネタの深さよ…。気になって気になってしょうがなく、うれしさのあまり書いていたらやっぱり6200文字に…。「ふく旅ライター」の記事は2週間ほど先になりますが、先にこちらを先行します。
1.福井市グリフィス記念館

お雇い外国人
江戸末期から明治にかけ、日本は西洋に追い付け追い越せと、さまざまな学問や技術を学び、取り込んでいきます。その一環として“お雇い外国人”と呼ばれた、各分野での人々が技術や知識を教えに何人も日本にやってきました。最近だと朝の連続テレビ小説でも主人公になったラフカディオ・ハーンもそうだし、北海道で銅像にもなっているクラーク博士もそうです。
福井にもやってきました。ウィリアム・エリオット・グリフィスさん。物理や化学を教える先生として、明治3(1870)年末に来日、翌年から1か月ほど東京大学の前身である大学南校で働いた後、3月4日に福井に到着します。ここから翌年1月20日までの約1年間を福井で教鞭をとることになりました。
擬洋風建築なるもの

そのとき、グリフィスさんを迎えるために作られたのが「異人館」と呼ばれた西洋風の木造建築の館でした。当時の日本には、西洋建築というものがイメージくらいしかなかったため、見様見真似で作った“擬洋風建築”という独特な意匠がなされていました。
この異人館もまたそうで、“擬洋風建築”の代表的な意匠・「ベランダ海鼠壁(なまこかべ)」という、日本独自の防火工法「海鼠壁(平瓦を並べて継ぎ目を漆喰で盛り上げる様式)」をベランダに組み合わせたものが作られました。
この「ベランダ海鼠壁」を含む“擬洋風建築”、元祖と言える建物が存在していました。明治元(1868)年に完成した「築地ホテル館」という建物で、外壁に海鼠壁をあしらっていました。しかしながら完成から4年後、銀座大火によって焼失してしまいます。そのときの意匠は絵によって今に伝えられています。ちなみにこの「築地ホテル館」、建設には来年の大河ドラマの主人公・小栗忠順の発案でもあります。もしかしたら大河ドラマで出てくるかも…。

何故再現できたのか
「築地ホテル館」完成から3年後には「異人館」が完成しているので、何かしらの情報が東京から福井に送られてきたのか、それとも流行だったのか、確かに「異人館」でも同じような工法が取られていました。しかしこの「異人館」もまた、完成から3年後、火事で焼失してしまいます。
では、現在再現して建築されている「福井市グリフィス記念館」は、どうやって作られたのでしょう? 実は「異人館」は当時2棟建っていたのでした。もう1棟は昭和11年まで残っていて、わずかに残っていたその当時の写真を基に設計され、完成したのです。残った棟は後に料亭『風琴亭』として生まれ変わります。

先ほどの「ベランダ海鼠壁」も完全再現していて、今では「ベランダ海鼠壁」を含む“擬洋風建築”は全国でも珍しい存在となっています。グリフィスさんの足跡と、彼がラトガース大学で知り合った福井の秀才・日下部太郎との交流も館内では紹介されています。ここで日下部太郎の話をしだすとさらに倍くらいの原稿になるので端折ります(笑)。
補足
「異人館」はこの浜町エリアと呼ばれる福井市中央3丁目にはありましたが、現在の「福井市グリフィス記念館」の場所ではなく、もう少し福井駅寄りに約200m行ったところに「異人館跡」という石碑が建っています。そこから回れ右をすると、足羽川に向かってグリフィスさんと日下部太郎の銅像が立っています。

さらに補足
「福井市グリフィス記念館」の斜め後ろに『リバージュアケボノ』というホテルがあります。立派な現代建築のホテルではありますが、駐車場が何故かアーチ形の意匠になっています。これはかつてこの地に福井市役所が建っていて、その建築の意匠がアーチ形をしていたところからのオマージュなのです。これもまた福井の歴史を今に伝えています。


2.三井住友信託銀行福井支店

2度の災害を耐えた
エキマエにおいて一番建物的に“映える”のが『三井住友信託銀行福井支店』のビル。SNSでも頻繁に上がっている、らしいです。花崗岩と人造石を使ってヨーロッパ風の重厚な外観に仕立てた意匠性の高い建物は、現代建築においてほぼ見受けられることのないもの。それもそのはず、この建物は昭和9(1934)年なので、今から90年以上も前に建てられたのですから。
福井の街は、昭和20(1945)年の福井空襲、昭和23(1948)年の福井地震で壊滅的なダメージを受けます。しかし! このビルだけは2度の災害も耐え切りました。これは奇跡と一言で片づけるものではありません。耐えるべくして耐えることのできた建物なのです。
信託会社という歴史
この建物を建てたのは、『福井信託株式会社』という会社でした。大正から昭和初期、日本は第一次世界大戦の影響で空前の好景気に沸きます。つまり、お金や財産がたくさん手に入った時代でした。では、この財産をどうするか。銀行は存在していましたが、銀行はお金だけを預ける場所。土地や株などは預けられません。そこでこの国に登場した金融システムが「信託会社」でした。
信託会社はお金だけでなく、あらゆる資産を運用する会社として生まれます。が、大体新しいものは「NO RULE」なので、当時は玉石混合の信託会社が乱立して取引に関する問題が発生します。そこで国はしっかり管理しようと法律を作ります。財閥を中心に信頼のおける信託会社が、都市部に誕生します。
すると、福井の資産家はこぞって県外に自分たちの資産を預けていく現象が生まれます。そりゃそうだ、利回りのいいところに預けたくなるのは世の常。その危機感を一番持っていたのは『福井銀行』でした。そこで福井にも信託会社を作ろう、と創設を計画したのが『福井信託株式会社』でした。
全国5位の業績

ちなみに。県内にもう一つの信託会社を作る動きが出てきます。「若越信託株式会社」。この会社を立ち上げようと動いたのが、鯖江に住んでいた実業家・政治家の福島文右衛門さんです。この人、今につながる事業を手掛けています。北陸電力へつながる「越前電気株式会社」の設立、福井鉄道に合併される「鯖浦鉄道(鯖江と織田を結んでいた鉄道)」の敷設、そして福井大学の前身である「鯖江女子師範学校」創設にも携わっていました。まさに鯖江の名士!
しかし、また乱立しても問題が起きます。そこで動いたのが当時の福井県知事。「一県一社」と仲介に入り、いろんな人を巻き込みながら昭和2(1927)年に、正式に『福井信託株式会社』は設立されます。翌年から事業をスタートするや、みるみるうちに業績を上げ、昭和4(1929)年には全国16位の規模に、そして昭和11(1936)年には財閥系を除いて全国5位に。地方とはいえ、かなりの業績を誇っていたのです。
何故耐えられたのか

つまりこの建物は『福井信託株式会社』が絶頂期に、お金を惜しまずつぎ込んで作った堅牢な建物だったのです。そりゃあ壊れないわな。信託会社はお客さんの資産を預かり、運営する会社。つまり資産自体はお客さんのもの。逆に銀行は、お金は預けるものの、その所有権は一旦銀行に移ります。だから、もし倒産したらお金が全額返って来ないのはそういう理由なのです。
信託会社は倒産してもお客さんの資産は全額返すし、だからこそしっかり守る。となれば建物は堅牢にする必要はあります。その覚悟が、今、私たちの前にある建物として見えているのです。しかし、約10000発の爆弾が落ちてきた福井空襲でも、気象庁がこれを機に震度7を設定した福井地震でも倒れなかったって、相当な建物です。素敵過ぎます。
その流れでもう一つ

実は、この建物と同じように空襲と地震に耐えきった建造物がエキマエにはもう一つあります。これはほとんど知られていないものですが、福井で一番大きな交差点「大名町交差点」にあります。それは緑色の鉄塔です。
かつてこの交差点は信号のない環状交差点、通称ラウンドアバウトと呼ばれるものでした。さらにその中心を、路面電車が走っていたのです。この路面電車の電線を張るために、各交差点角にこの鉄塔が4つ建っていました。

しかし戦災、震災後の復興でラウンドアバウト方式は変わり、電柱の敷設と共に電線を張るための鉄塔は必要なくなり、いつしかひっそりと撤去されていき、今ではこの2本の鉄塔だけが残るに至りました。当時の福井の街並みを今に伝える遺産として、気付いた人は是非ともその名残を触って確かめてください。
3.コノジナガヤ

令和の昭和遺産
明治、昭和と時代が進み、現代の令和。お店にいるととにかく、驚嘆の声を持って視察に多くの人が訪れているのがわかります。それくらい、建築の世界において世にも珍しい建物とされているのが『コノジナガヤ』です。
新栄商店街はこれまでも珍しいことをやってきました。火事で焼失した商店街の一角がコインパーキングになっていたところ、福井市と福井大学と商店街の産官学による奇妙な取り決めを行ない、「新栄テラス」が誕生し、この取り決めは国土交通省の参考資料にも載ることになりました。

新栄商店街は以前のコラムでも書いた通り、昭和の雰囲気を残しながら令和的なお店が並ぶ場所です。この“昭和の雰囲気”を残しながらリノベーションを起こしたのが『コノジナガヤ』なのです。小さな店舗が立ち並ぶ商店街の中に作った、昭和なシンボルとでも言いましょうか。
まちなか再生ファンド

店舗兼住宅の長屋だから、全員が違う地主家主です。それを一つにまとめようというのだから、よっぽどの交渉力が必要です。それができるのは唯一、『まちづくり福井株式会社』しかありませんでした。長い年月をまちなかのまちづくりに傾注してきた会社だからできたと言っても過言ではありません。
福井県、福井市、福井商工会議所の3者でお金を出し合い、「県都グランドデザイン」の一環として「まちなか再生ファンド」を立ち上げました。これはまちなかで空き店舗や改修・改装をして新しくお店を出す人を支援して県都である福井のど真ん中を良くしていこうという基金でした。
その中に新栄商店街もありますが、ここだけ作り変えて新築、ではなく、リノベーションのみに基金を拠出する、というものでした。これはつまり、3者が新栄商店街の“昭和の雰囲気”を大事にしてくれた施策だと、そこまで新栄商店街を応援してくれるのだと、素直に嬉しかったです。
で、『コノジナガヤ』。複数の家主・地主による集合リノベーションに基金を拠出してくれることだったので、前述の『まちづくり福井株式会社』が動いたのです。そして地主・家主さん全員の了承を得て、晴れて集合リノベーションはスタートします。
解体までわからない


が、ここからが大変(笑)。何しろ震災後の商店街なので既に70年近く経っている建築物なわけです。外観はわかっても、中身がどうなっているかわからない、という状況です。解体しては調査をして、図面を引き直し、さらに解体しては調査をして、図面を引き直し、なんてことの連続でした。
それでもやり遂げられたのは、新栄商店街の、古くて新しい“顔”を作るという意志の強さに他なりません。私もお手伝いをしました。『コノジナガヤ』という名前も考案しました。お店も移転しました。その覚悟を共有しようと思ったからです。
贅沢な建物の理由



かくして1年の工期を経て『コノジナガヤ』は完成します。古くて新しい空気をまとった、世にも奇妙な建物がお披露目されました。訪れるとわかるのですが、階段が3つあります。幅も角度も違うのは、以前の建物の階段を踏襲しているからです。建物の間から空が見えます。屋根を塞ぐとリノベーションではなくなってしまうからです。
段差があるのは、そこがかつての建物の境界だからです。土壁もありつつ太い鉄骨が横たわっているのも、以前に使われていたものをそのまま使っています。吹き抜けを作り、床の間をそのままにしているのも、当時の生活を今に伝えるためです。
正直な話、贅沢な造りです。入居できるのは6店舗のみ。やっぱり贅沢な造りです。これがもし民間のデベロッパーが関わっていたら、きっと昭和の空気、新栄の記憶を消してしまい、もっと入居店舗数を多くしたでしょう。吹き抜けも無くし、床の間も無くし、土壁も鉄骨も見えないように、箱型にしていたでしょう。
でもそれを、『まちづくり福井株式会社』はしなかったんです。あくまでもまちづくりの一環であり、街の雰囲気、街の空気感、街の営みの歴史を、この場所ではなくしてはいけないという思いがありました。だから世にも奇妙な建物になって、全国から視察が訪れるのです。
ついでの最後


『コノジナガヤ』と対極にあると言っていい『FUKUMACHI BLOCK』にある『コートヤードバイマリオット』の外観、これはどこも同じではなく、特に福井のこの外観は福井ならでは。これは福井の繊維産業へのオマージュで、“羽二重織(縦2本横1本で織った織物)”をイメージしています。これ気付いている人少ないだろうな。
さいごに
「まちづくりとは人づくり」。自分がまちづくりをライフワークとして活動し続けて出した答えがこの言葉です。もちろん建物を建てるのも人ですし、建物をどのような形にするかを考えるのも人です。その人が街にどのように関わり、どのように思い描き、形にするかも、またまちづくりであるので、建物というハードも結果的に人の営みの延長線上にあると思っています。
建物はソフトなものより目に見える営みの形でもあります。先達の生活から、人の関わりから形になったものが、今、現代の私たちの目の前にあります。細部に魂は宿る、という言葉があるように、ネジ一本にいたるまで一つひとつのこだわりが、街を形作っているのを思うと、先人の知恵と技術に深く感動を覚えたまちあるきでした。